荒野政寿さんによる餓鬼レンジャー考

荒野政寿さんによる餓鬼レンジャー考

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餓鬼レンジャーは何気に約20年に及ぶ、
長い活動歴を誇るグループ。
遂に届いた復活作『KIDS RETURN』は、
イヤな渋さや重々しさから完全にフリーで、
初めて彼らを知った頃の鮮度を保っていることに驚きを禁じ得ない。
不老長寿の謎を解くべく、
彼らの活動を原点に遡って検証していこう。

【「九州発全国行き」を実現するまでの前史】

餓鬼レンジャーの公式サイトを見ると、
「1994年に結成」と記されている。
デビュー直前にYOSHIから訊いた際は
「グループとして餓鬼レンジャーがスタートしたのは95年の10月頃」
と言っていたが、いずれにせよYOSHIやポチョムキンが
同じ熊本の大学に通っていた94~95年のどこかで、
餓鬼の母体となるユニットが発足したのだろう。
そのユニットはダンサーやMC、DJ、
グラフィティ・ライターを含む10人超の大所帯。
そこから派生した餓鬼レンジャーは
もともとMC5名+DJ3名がフルメンバーで、
次第にYOSHI、ポチョ、そしてDJ KOGAの3人で
活動するようになっていった。
彼らの出発点がラップ研究会的な肩肘張ったものでなく、
「総合エンターテイメントを楽しむパーティ集団」
であったことは、記憶の隅に置いておいて欲しい。

ちなみに95年は
ライムスターのセカンド・アルバム『Egotopia』や、
キングギドラの『空からの力』がリリースされた年。
伝説的なイベント、“さんぴんCAMP”が
開催されるのは翌96年のことだ。
結成当初は下町兄弟のラップを
お手本にしていたという餓鬼レンジャーも、
新しい日本語ラップの潮流に刺激され、
自ずと方向性が定まっていった。

餓鬼レンジャーの存在が他府県でも知られるようになったのは、
DJ GOSSYやDJ DOUBLE Kといった
関西勢のミックステープにオリジナル曲が収録された辺りから。
京都のMAGUMA MC’Sが彼らを関西に呼んで以降、
DESPERADOなど若手グループと交流が生まれ、
活動の場が拡がった。
こうした下積み時代のネットワークは、
後にポチョムキンが手掛ける、
全国の精鋭を集めたコンピレーション
『RAP WARZ DONPACHI』(00年)
で活かされることになる。

東京でもライヴ・パフォーマンスの実力が
知られるようになった97年には、
早くもメジャー・デビューの話が浮上。
しかしこの時点ではteeという女性シンガーのシングルに
1曲フィーチャーされただけで、実を結ばずに終わった。

次に彼らに接触したのは、
イルマリアッチに続く「地方都市のスター」を探していたPヴァイン。
メンバーは九州にとどまったまま、
レコーディングだけ上京して行なう形で、
ミニ・アルバム『リップ・サービス』を98年にリリースする。
リリックの9割近くをエロネタが占め、
しかも嫌味なほどスキルフルだった本作は、高い評価を獲得。
これを足掛かりに、一気に全国区の人気グループへ…と思いきや、
何故かこの後メンバーの足並みが揃わなくなっていった。

グループとしての活動がペースダウンし始めるのと時を同じくして、
ポチョムキンはノープランで単身上京。
会うなり「なんか仕事ないっすかね?」
と真顔で相談されて目が点になったのを覚えているが、
そんな風に思いつきで行動できてしまう
大胆さと屈託のなさは、彼の大きな武器だ。
結局ポチョは、
当時ラッパ我リヤを筆頭に多くのラップ・グループを
抱えていたポジティヴ・プロダクションで裏方として勤務。
東雲レーベルを立ち上げて
先述のコンピ『RAP WARZ DONPACHI』や、
自身のソロEP『ゲンゴ JET-COASTER』、
Illmuraの作品などをリリースした。
大きかったのは『RAP WARZ DONPACHI』用に
餓鬼レンジャー名義で“サタDEFナイツ”を録音したこと。
開店休業が続いていたグループがここで手応えを感じ、
再始動することになる。

2001年に入ると、
シングル“火の国SKILL”のリリースと同時に、
ビクターと契約したことを発表。
当時のインタビューでYOSHIは、
ポチョムキン不在でライヴを続けていた期間について
「あいつがいればな、と思う場面もあった」
と本音を洩らしていたが、一方ポチョは平然と
「俺はグループとか別に…俺自身が輝けばいいと思ってるから(笑)」
と言ってのけた。
押したり引いたり、時にひどくツンデレだったりする二人の距離感は、
“餓鬼レンジャーらしさ”を語る上で外せない要素のひとつだ。

ステージ上では常にタフで、
押韻に徹底的にこだわるストイックなMCである反面、
実はガラスのハートの持ち主でもあるYOSHI。
それとは対照的に柔軟で楽天家、
言葉の“響き”を何より重視するポチョムキン。
MCとしても人間としてもタイプの違う二人が、
互いに影響し合い、補い合ってきた。
YOSHIがほぼヒップホップひと筋で歩んできたのに対し、
ポチョがパンクからトリップホップ、
アンビエントまで何でもOKなのも面白い。
そして、いざエロい話題になると
周囲が唖然とするほどガッチリ意気投合、
仲良く一緒に風俗店に行くことすら珍しくなかった。
こんな独特な人間関係の2MCを、私は他に知らない。
一旦波長が合うと凄まじい集中力を見せるが、
何かの拍子にバランスが崩れると、自然と距離を置く…
そんなことの繰り返しが、
餓鬼レンジャーの歴史を作ってきたようにも思う。

【黄金の4人:2001年から始まる快進撃】

MC2名の歯車がピッタリ噛み合い、
怒涛の勢いで新曲を作りまくった結果、
初のフル・アルバム『UPPER JAM』(01年:オリコン16位)が生まれた。
正式メンバーとして加わったGP、High Switchを含む
身内のプロデューサーで固めた本作は、
YOSHIいわく「リスナーが求める餓鬼レンジャー像を打ち出した曲と、
それを裏切る曲のバランスがちょうどいい」アルバム。
CD1枚に収まり切らないほど大量の候補曲が揃ってしまい、
泣く泣く何曲か削ったという逸話からも、
当時の充実ぶりがよくわかる。

ヒット・シングル“ラップ・グラップラー餓鬼”“MONKEY 4”に
続いてリリースされたセカンド・アルバム
『DA-PONG』(02年:オリコン18位)は、
サウンド的には前作の路線を踏襲しつつ、
当時4人が拠点を置いていた福岡のスタジオで制作に没頭。
これが吉と出て、より濃密で結束力の高い作品に仕上がった。
24曲という異常なボリュームながら、
多彩な曲調で飽きさせないアルバムだ。

これら2作の成功で俄然注目度を増したのが、
プロデューサー陣のGPとHigh Switch。
ZEEBRAが『Tokyo’s Finest』(03年)でGPを起用したのを皮切りに、
トラック提供の依頼が外部から続々寄せられるようになった。
そうした流れを踏まえて、翌04年6月には
2人のユニット=H☆G☆S☆P名義のアルバムも登場。
ZEEBRA、DABO、EQUALなど豪華MC陣が参加して話題を呼んだ。

順風満帆に見えたメジャー進出後の餓鬼レンジャーだったが、
レコーディングとツアーの連続でメンバーの疲弊感は増していた。
04年のサード・アルバム『ラッキーボーイズ』も、
やや投げやりな感じの仕上がりに。
くりぃむしちゅーをスキットに起用、制作陣に外の血を入れるなど、
それなりにテコ入れを図った野心作ではあったが、セールスは伸び悩んだ。

前作の反省を踏まえて再度レコーディングに集中した
05年の4作目『GO 4 BROKE』は、
自分たちの持ち味を再確認した手堅い1枚に着地。
ライムの技が冴えわたる“クチコミ6000000000”や、
KREVAも客演した“ラップおじいちゃん”など、
いかにも餓鬼らしいウィット溢れる佳曲が揃っていた。
しかし本作リリース後からグループとしての活動は再びペースダウン、
個々の活動に重きが置かれるようになっていく。

ポチョムキンはKEN-1-RAWらと結成したDOSMOCCOSや、
MICADELICの真田人と組んだ随喜と真田2.0でアルバムを続々発表。
ソロ名義でも、ZAZEN BOYSの向井秀徳や
水前寺清子といった大物ゲストを迎え、
多岐に渡る音楽的な好奇心を形にした
フル・アルバム『赤マスク』を09年にリリースしている。

一方YOSHIは自身のレーベル、Vollachest Recordzを設立。
同じ関西出身のSHINGO★西成、旧友であるMista O.K.I.、
餓鬼とは長いつき合いになる446と組んだ
Ultra Naniwatic MC’sの活動を本格化させ、
アルバム『The First』を06年に発表した。
同レーベルからは翌07年にMista O.K.I.のソロ作や、
ポチョムキンが全曲をプロデュースした
企画盤『ポチョムキン&スーパースター列伝 ゴキゲンRADIO』もリリース。
後者には餓鬼レンジャー名義で録られた
久々の新曲“*RUNNICANO*”も収められていた。

GPは遊助の楽曲制作、DJを担当してテレビにも度々登場。
プロデューサーとしてもET-KINGや傳田真央、
Heartbeatなどを手掛け、活動エリアを拡大してきた。

何しろ各人が強烈な個性と才能の持ち主。
メンバー各自がそれぞれ異なるフィールドで、
異なるアプローチでの活動を続けていたが、
いつまでも離ればなれのままではいなかった。
2001年の復活がそうであったように、
磁石と磁石が引き合うようにして、
餓鬼レンジャーはまたしても息を吹き返す。

【久々の新曲発表を経て、トリオで活動を再開】

2010年、餓鬼レンジャー名義の新曲
“Japanese Chin ~貝より犬より椅子になりたい~”を突如配信。
さんざん待たせた末に出すにしては、
クサさのかけらもないリリックが実に清々しく、
古くからの餓鬼マニアたちを狂喜させた。
そして昨年の初夏には
新曲入りベスト・アルバム『Weapon G』がリリースされ、
今後はHigh Switchが脱退して3人で活動を続けていくことも発表。
アルバム冒頭に置かれた2つの新曲
“まずは空手チョップ”“SHORT PANTS”は
いずれもインパクト、風味共に充分で、
来るべきニュー・アルバムに対する
モチベーションの高さを確信させてくれた。

そして遂に届いた5枚目のオリジナル・アルバムには、
『KIDS RETURN』というニクいタイトルが。
昨年から配信してきた既発曲もブラッシュアップして詰め込み、
いい大人とは思えないスキットも含む全18曲が並んだ。
これまでも時代時代の“旬”を作品に反映してきた餓鬼らしく、
EDMテイストを大胆に導入。
持ち前のパーティ好きな性質がこれによくハマり、
存外な相性の良さを見せている。
無論、従来の餓鬼らしさを残した
オールドスクール・テイストの骨太トラックも常備。
20年選手でありながらどこまでも軽やかにバットを振り切る様は、
古くからのファンを大いに驚かせることだろう。

決してあからさまではないのだが、表現の深化も本作で確認できる。
それが顕著なのは、父親になったYOSHIのリリック。
執拗な韻と韻の間に、
これまでにないタイプのトピックを挟み込んでくる場面もある。
しかし、そこで変にしかめっ面になり過ぎず、
短絡的な「大人になりました」アピールもしないのがYOSHIらしい。

ポチョのラップは、
もはや歌詞カードの存在が邪魔に思えるほど、
言葉の響きとリズムへの食いつきを全編で追究。
意味性とナンセンスとの間を気ままに
往来しながら突き進むフットワークも鮮やかだ。
初期からこだわってきた
アクロバティックな言葉づかいにとことん磨きを掛け、
武術を思わせる域にまで高めている
(それを用いて語られるのは、自身の「鈍器」自慢だったりするのだが)。

記念すべき復活第一弾のアルバムだというのに、
ラストの“GO GO 浄土”でポックリあの世へ旅立ってしまう様も圧巻。
本作で最も重いテーマの“BLACK OUT”を踏まえてこの曲を聴くと、
アルバム全体の景色が随分違って見えてくるはずだ。

 “RANGER SHOW”の「四六時中遊びたい」(ポチョムキン)と、
“YES!!”の「知らせたいのさ存在を」(YOSHI)。
この2つは、初期からずっと餓鬼レンジャーを衝き動かしてきた、
彼らがマイクを持ち続ける理由でもあるだろう。
こうしたシンプルな衝動を失わずにいるからこそ、
餓鬼は今もってフレッシュであり続けられるのかもしれない。
迷わず我が道を行った感がある本作は、
デビュー当時から彼らが形にしようと苦心していた
自分達流のパーティ・ラップに、
ようやく正面から取り組めた作品であるようにも思える。
やや閉塞気味なヒップホップの未来に活路を示すのは、
恐らく彼らのような根っからのパーティ野郎なのではないか。
心・技・体を鍛え抜いて新生した餓鬼レンジャーは、
彼らがすべき仕事にピタリと照準を合わせている。

荒野政寿(CROSSBEAT)